徒然なれぬままに。

初めてこの感情を抱いたのは、恐らく十五年以上前のことに思う。アニメ映画『アイアン・ジャイアント』を観たときだ。当時、まだ物心ついて間もない幼稚園児であった僕は泣いた。両親いわく大号泣であったらしい。どうにもこうにも手をつけられず、泣き疲れて眠るのを待ったという。そして翌朝起きた僕は、母親にポツンと「あの子はこのあとどうなるの」と言った。

 

小学生になった僕は再びこの感情に出会った。アニメ映画『ブレイブ・ストーリー』。二十歳を越えたいまとなっては、特筆するほど出来のよかった映画だったとは言いづらい。二時間に満たない、あまりに短い尺で描かれた主人公の勇気の物語。後に原作を摩りきれるほど読み、そしてここで僕は泣いた。「これから生きていくワタルは救われたのか?」

 

それから程なくしてアニメ映画『サマーウォーズ』を観る。清々しかった。大団円。ハッピーエンド。登場人物みな笑顔で物語は終わった。よく遊び相手になってくれた祖父を亡くしてから、まだ日の浅かった僕はとても他人事には思えないストーリーだった。もっと話したかった、聞きたかった、怒られたかった、褒められたかった。「ナツキはどうして前向きでいられるんだろう」

 

高校受験を控えた十五の秋。PSPソフト『恋と選挙とチョコレート PORTABLE』。この頃になると僕はいわゆるオタクだったが為に、エロゲ等に熱中し始めていたわけなのだが、とりわけ一番のお気に入りが上記タイトル『恋チョコ』だった。もちろん年齢的にエロゲなど買えるわけもなく、そういう表現を撤廃したPSP版で初めて触れることになった。

ここでどうにかあの感情に名前がつけられそうだな、と思った。ヒロインと出会って、彼女と大きな障害を乗り越えて迎えたエンディングのそのあとに。「彼女は本当に大丈夫だろうか」

 

僕はいままで、上で挙げた作品以外にもこの感情を抱いたことがあった。物語の続きに、キャラクターのその後の人生が気になって仕方がなかった。きっと彼ら、彼女らは今後また大きな壁に直面する。そしてそれを物語で築き上げた絆や愛情によって乗り越えていく。それをこの目で、耳で、体感できないことがもどかしくてもどかしくて仕方がなかった。それはもう二次創作なんてものに手を出して、自らそれを描こうとするほどに。ホーガースなら。ワタルなら。ケンジとナツキなら。オーシマとミチルなら。この程度の障害はなんとでもない、きっと僕たちにまた続きを魅せてくれる!

 

結局、この感情を抱き、名前をつけようとしてもう十九年が経とうとしている。まだ定められそうにもない。彼らの一瞬の切なさ。終わったものへの喪失感、未練。胸が苦しくなる。

 

『恋チョコ』の制作会社spriteは『蒼の彼方のフォーリズム』を最後に活動を休止してしまった。二度と高藤学園で新たな物語は生まれない。四島で空を翔ぶこともできない。

僕の中から彼らの物語が消えることがとてつもなく恐い。ここまで心が揺さぶられているのに、僕の生き方を支えてくれたのに、もしかしたら僕は忘れてしまうかもしれない。なにか形にせねば、と思ってこうして書いた次第だ。

 

最後に。

よくTwitterイラストレーターさんへのリプに「尊い」だのといったイラストを貼る人を見かける。僕はあれを好きではない。自分の言葉で語らないことの不誠実さを感じてしまう。だから好きではない。好きではない、のだが。僕はこうして言葉に出来ず、名前のつけられない感情を胸に秘め続けることの苦しさを知っている。それを画像が代弁してくれて、その心が軽くなるのなら。僕はすこしだけ、彼らの気持ちを理解できるのかもしれない。